最近はすっかり東大のイチョウも色付き、葉が舞い散っています。特に今日は少々木枯らしが吹いているのでなおのことです。
東大のシンボルマークにもなっていますが本郷キャンパスはイチョウだらけです。少し前までは結構実が匂っていました。ただ見た目はなかなかきれいです。三四郎池の方に行くと紅葉等もあってさらに鮮やかです。
安田講堂を望む正門からの道。
中央図書館につながる道は一面イチョウの葉。
今年、工学部一号館(建築学科)前が整備されて、イチョウの大木を中心に据えたちょっとした公園のようになっています。
以前、
AudibleでThe World Is Flatのaudio bookを買ったことを書きましたが、今日研究のために企業のアニュアルレポートを見ながらさりげなく聞いていたら何だか聞き覚えのあるスピーチが。
これまた前に紹介した
スティーブ・ジョブスのスタンフォードでのスピーチがそのまま引用の形で収録されていたのでした。
ちゃんと本を目で読むのはその部分の10ページほど前で止まっていたので、ジョブズのエントリを書いたのに気付かなかったのでした。
本での位置づけは、リベラル・アーツの重要性を言うところで取り上げられており、
「イノベーションは技術だけからは生まれない。そのためには教養課程のようないろいろな
点をつなぐような教育が大切なのだ」
という論旨に持っていくためのものでした。calligraphyが好きで勉強していた事がMacにつながったという話がありましたから持ってこいの話だったわけです。
"イノベーションを起こすため"という訳ではないですが、今興味があるのは日本や世界の歴史だったり政治だったり、いわゆる"文系的"な分野。教養課程をもっとしっかりやっておけばなぁ、という若干の後悔があります。。
ところでこのエントリを書くにあたって少しネットサーフィンしていたところ、
フリードマンのMITでの講演の動画を見つけました。こういうのが普通にネットにはころがっていますねぇ。インターネットの威力ですね。(もっとも、MITはOCWをはじめ、教育的内容の公開に対して積極的であることも大きいと思います。)
いやはや今週はバタバタし通しでした。
研究、ゼミ、授業(これは1つだけ)に加えて最近参画した、Stanford学生との交流会の企画で夜遅くまで資料作りに追われたりしていました。でも今日、教授との打ち合わせを何とか乗り切りちょっと一息といったところです。
プロジェクト管理に仕事でやっていたプロセスを(多少簡略化して)当てはめてやっているので、この企画はほぼ仕事をしている感覚で、5ヶ月後に迫った会社復帰が何となく頭をよぎる日々です。。
さて、その企画の絡みで日本発のイノベーションって何だろうか?と社内のSNSで問いかけてみました。結果としては結構いろいろ案が出ました。
例えば、Wii、DS、PS、といったデバイスから宅急便、コンビニ、セコムといったサービス、カップラーメンやカラオケ、アニメ、マンガといった身近なところから新幹線、電子化高炉、といった産業機械の例まで実に幅広く活発にアイディアが出されてありがたいとともに、集団知の威力を感じられたいい機会でした。
その議論の中で1つ論点になったのは、
「なぜ日本人はiPodは褒めてもWiiやDSといった日本の物を褒めないか?
フォロワーマインドが浸みこんでしまっているのか?」
といった話でした。謙遜の面もあるのでしょうが、自分なりの価値観で正当な評価ができない癖が知らぬ間についていないか見直す意味はあると思います。
日本の物を良いと言えない原因として以下のような原因の階層を考えてみました。
第0段階.知らない
(個人向け製品でないものは概ね知らないことが多い。電子化高炉など。)
第1段階.判断できない
(カンヌを受賞して初めて日本での評価が上がる、など。)
第2段階.自信がない
(良いと思っていても、そこまででもないかと思ってしまう自信のなさ。マインド。)
第3段階.発信できない
(英語で世界に発信できていない。もしくは同業同士の横並び意識(足の
引っ張り合い?)。そしてそれがまた新たな「知らない」を生む。)
それぞれの階層で思い当たる節がある気がします。
golden_bearさんが
海外の場で日本人が発信している姿を見て嬉しくなった話を書かれていますが、無いものねだりばかりするのではなく、今あるものを正当に評価してどんどん発信していく。そんな姿勢がこの国を元気にするために必要なことに思えます。
上記で出た事例のいくつかを紹介するコンテンツを作って、Youtubeにでもアップしてみようかと企んでいる次第です。
今日は日商簿記検定の一級を受けてきました。結果は惨敗。。
学校で「財務会計も勉強しました」と言うよりは、それに加えて「会計については簿記も一級取りました」と言った方が成果としてわかりやすい、という不純な(?)動機で受けたのですが、やはり簡単に取れるものではないですね(当然)。
もちろん受かるに越したことはないし、投入したお金(テキスト6冊(1,200円/冊)・予想問題集1冊(2,000円)・受験料(7.500円))も安くはなかったですが、この一か月(そもそも一か月というのが受かるには無謀でしたが…)結構集中的にやったおかげで、
・4つの財務諸表の各項目の埋め方(単体、連結、本支店)
・[全部|直接]×[実際|標準]原価計算
・意思決定会計
について、答えを見たらどうしてそうなるのかを理解できるところまで行ったということで、まぁ良しということにします。(甘い・・・)
自己分析としては受かるためには、
・個々の仕訳の暗記+すっと出てくるまで慣れること
・問題文読み取りの訓練(「こういう記述はこの処理をする」のパターン覚え)
・多くの計算問題を解いてスピードをつける
こと。簿記を解くには筋トレして"簿記筋肉"つけないとダメですね。
先日のエントリで、
・日本はやることを決める時はおとなしくして軍隊のようだが、実行段階に
なって(上からの指示に反して)動かないことが意外と多い。
やっているふりをして成果を上がらなくして、そのプロジェクトが立ち消えに
なるのを待っている。
と書いて、面従腹背だと否定的に書きましたが、組織論の本によるとこういった「やりすごし」行動も立派な組織的機能と考える研究もあるようですね。
それが「ゴミ箱モデル」の「やり過ごしによる決定」というものです。
ゴミ箱モデル、とは組織的意思決定状況を説明する分析モデルで1972年に提唱されたそうです。
このモデルによると、組織的に意思決定する対象としての選択機会をゴミ箱に喩えて、参加者はそのゴミ箱の中に問題だったり、解答だったり、自分が気がついたり作り出したものを入れていきます。
そしてそのゴミ箱の中に問題解決に必要な量のエネルギーがたまったときに、そのゴミ箱(=選択機会)が組織的な意思決定(「それに取り組む」と決める)となる、というものです。
(参考
「超企業・組織論」高橋信夫 著)
このモデルでの意思決定パターンには、
(1)問題解決による決定
(ちゃんと、投入された問題に対して解を出して実行する)
(2)見過ごしによる決定
(問題がちゃんと投入されないうちに解を出してしまって実行する)
(3)やり過ごしによる決定
(問題をやり過ごしているうちに問題自体がなくなる)
の3種があり(詳細は割愛します)、コンピュータ・シミュレーションをしてみると、あいまいな状況下では(2)の見過ごしや、(3)のやり過ごしによる決定が通常の決定スタイルになるとわかったそうです。
しかも面白いのは、仕方なく(3)のやり過ごしパターンになるということだけではなく、
・人材の育成の機能
(上司の指示を忠実にやっていれば良いかと言えばそうではない。
自分自身で優先度をつける必要があり、その力量をチェックするのに使う。)
・選別の機能
(巨大な問題の解決に組織中からエネルギーをかき集めると、他の選択機会
に対応できなくなる。そのような問題をやり過ごすことで最低限の決定を保証)
という考え方があり、前者の人材育成については実際のケースも報告されているということです。
どういう意図を持ってやり過ごしているかで大分内容は異なる気がしますが、日本組織においては主体的にこのやり過ごし(※)をしているとしたら、ミドルが強い裏付けになるような気がします。
(※)1990年代の日本企業の調査によると、「指示が出されてもやり過ごしているうちに立ち消えになることがある」と応えたホワイトカラーの比率は53.4%だそうです。これは高いと見るか低いと見るか。マネージャー側から見たら心穏やかでない結果だと思いますが、感覚的にはもっと高くても不思議でないような。